物語讃歌

物語について語ります。 Twitter:@monogatarisanka

詩「月光」

 月光

月の光が息を詰め

花が聞き耳立てし夜

とある一人の密偵が 

まさに殺されなむとする

 

さらば世界よ 今思わば

全ての時が懐かしい

むかし都で花買いし

あの花売りは今何処ぞ

 

さらば世界よ 今思わば

今朝の旭の美しさ

それを二度とは見れぬとは

今朝の私は知らなんだ

 

さらば世界よ今思わば

幼き頃に良く聞きし

あの歌声の主は誰そ

 

銃声ひとつ あとは闇

月の光は 息を吐き

花は無心に揺れている

 

月の光は 息を吸い

花は無心に揺れている

「君の名は」対話篇~三番目の主人公~

桃子「義三さんもう『君の名は』ご覧になった?」

義三「やたら急に始めるんだね。」

桃子「あら、私の都合じゃなくってよ。」

義三「じゃあ、誰のだい?」

桃子「今これを書いてらっしゃる方の都合よ。評論で書くと分かりづらい文章になるから会話で進めたいんですって。」

義三「なるほどプラトン気取りというわけか。だとしたってなぜ僕らなんだ。」

桃子「一昨日読んだからですって。」

義三「だとしてももっと適役がいそうだが…」

桃子「まあいいじゃないの。それで、もうご覧になったの?」

義三「ああ、見たよ。桃ちゃんはもう見たんだろう?どうだった?」

桃子「私は好きよ。はじめの方はなんだか駆け足で驚いたけど。でも、中盤に入ってからのプロット・ツイストはびっくりしたし、時間を超えた二人の愛はとっても素敵だったわ。義三さんは?」

義三「僕もとても楽しめたよ。ところで、桃ちゃんはあの二人の愛は運命だと思うかい?」

桃子「難しいわね…私はね、何故だかわからないけどあまり運命だと言う感じはしなかったのよね。あれだけたくさんの奇跡が起きていたのに…どうしてかしら?」

義三「それについて考えていたんだ。一つ聞いてみないか?」

桃子「あら、どうして男の人ってすぐに感動の腑分けをしたがるのかしら。いやあねえ。ロマンが無くってよ。」

義三「僕は医者だから腑分けも好きなのさ」

桃子「まあ。でも、いいわ。きょうはあまのじゃくは無しにしてあげてよ。」

義三「ありがとう。まず、僕はこの映画には3番目の主役がいるんじゃないかと思うんだ。」

桃子「三葉さんと瀧さん以外の三人目という事かしら…?」

義三「いいや、正確には人じゃないんだ。『繭五郎の大火』って言葉が映画の中で出てたけど覚えてるかな?」

桃子「ええ、確かそれでお神楽なんかのいわれが分らなくなってしまったのよね。」

義三「彼女の祖母はそう言っているけど、僕は実際にはそれ以前に儀式の意味などは忘れられてたんじゃないかと思うんだ。」

桃子「あら、どうして?」

義三「たとえ文書が失われてもそれを直接読んだことがあるであろう人、例えば宮水家の人が生き残っている以上、知っていることを新たに書き残そうとしないはずがないと思うんだ。」

桃子「それもそうね、現代まで宮水家は残っているんですものね。」

義三「それにね、宮水家が守ってきた儀式の本来の使い道を当時の人々が知っていれば『繭五郎の大火』はそもそも起こらなかったんじゃないかと思うんだ。」

桃子「本来の使い道…?未来を見ると言う事かしら?」

義三「その通りだよ。お神楽のシーンの最後で三葉と四葉が分裂する流星と同じ形を作った所があったろう?」

桃子「あったかしら?」

義三「まあそう解釈もできるっていうだけだけどね。僕は宮水家に受け継がれてきた伝統の本来の使い方は『未来を見ることで災害などを予見し被害を無くす、あるいは抑える』という物なんじゃないかと思うんだ。流星が二つに割れたのを象徴として捉えれば、世界線を移動していると考える方がいいのかもしれないけど。」

桃子「それは私もなんとなく思ったわ。あら、でもそうなると二人の恋愛は…。」

義三「うん、能力の本来の使い道を知らないが故の使い間違い、と言ってしまってもいいのかもしれないね。」

桃子「なんだか夢がないわねえ。でも、『繭五郎の大火』は当時の宮水家の人が能力の事をちゃんとわかっていれば起こらなかったはずと言ったのはそういう事なのね。」

義三「うん。お神酒や組紐もある種の保険だったんじゃないかと思うんだ。万が一うまくいかなかった時のために未来の人が過去のある時点へ戻ることができるようにとか…。」

桃子「最初からそういう意味があるお神酒だったと考えれば、たしかにあのシーンも脈絡のない奇蹟ではないわね。でも、それもロマンチックじゃないわねえ。」

義三「組紐の用途はよくわからないけど過去と現在の二人を繋げる結びの役割をしていたのかもしれないね。」

桃子「…そういえば、かたわれ時のシーンで瀧さんが三葉さんに組紐を渡していたわよね。」

義三「そうだね」

桃子「その時、名前を書くようにってペンを渡したけど、かたわれ時が終わったらペンは今の時代に戻ってきてしまっていたわよね。」

義三「ああ。そうか。あのシーンで時間を超えて移動できたのは組紐だけだったんだなあ。」

桃子「二人の結びの象徴なのかしら。」

義三「そうじゃないかな。二人がすれ違う時にお神楽の鈴が鳴る事が何度かあったけど、あれは二人の間の結びが失われていないことを示しているんだと思うよ。ところで桃ちゃん、最初の『二人の愛は運命か』っていう質問だけど。」

桃子「宮水家の能力の本当の使い道が恋愛成就じゃないんだとしたら、運命じゃないんじゃないかしら。でも奇蹟だとは思うわ。」

義三「そうだね。『奇蹟だけど運命じゃない』とでもまとめるべきなのかな。でも、運命じゃないからこそ…」

桃子「二人の愛は本物?」

義三「うん。この映画を『宮水家の能力の本来の使い方を取り戻す物語』として捉えると、実は二人が恋に落ちた事実はここで起こっている奇蹟の直接的な結果ではないことがよくわかると思う。」

桃子「二人の恋愛と能力の正しい使い道の再興、実際には二つの事が同時進行していたのね。」

義三「最後のシーンで二人がすれ違う時に鈴の音がしなかったのは、最終的に二人を結び付けるには結びの力ではなく二人の愛の力が必要だったということじゃないかな。」

桃子「最後のシーンで二人が声を交わしたのは瀧さんが声を掛けたからですものね。」

義三「そうだね。」

桃子「運命じゃないからこそ尊い愛…。たとえ奇蹟に導かれても選び取ったからこそなのね…。」

義三「うん、そうだね。…民子さんに言われたことがあるよ『愛してさえいれば、いつでも結びつけると考えるのは、まちがいだわ』ってさ。」

桃子「…そろそろお昼にしましょうか。義三さん。」

義三「そうだね。」

 

※桃子と義三は川端康成作「川のある下町の話」より借用

「人はなぜ物語を求めるのか」―千野帽子― ちくまプリマ―新書273 を読んで思う事。

私は子供のころから不思議に思っていたことがあった。それは「借り」という概念だ。マフィア映画などで「お前には貸しがあったな」とかいうセリフを聞くたびに、なぜこの人は暴力で人を脅すことを生業にしながらわざわざ「貸し借り」の概念を持ち出すのだろうか?つまり、言う事を聞かなければ害を及ぼすという単純なルールでしかないものをどうしてそんな「貸しがあるんだからそれを返せ」というロジックに置き換えるのだろうかと考えていた。また、「借り」がある人はなぜそれを負い目に思うのだろうかとも考えていた。

私は別に義理人情や他者の頭の中が理解できなかったわけではなかったが、単純にそれが不思議な事として映った。その疑問は長く私の中に残ったが、或る時「ナラティブアプローチ」という考え方に出会い、そして「ナラトロジー」という学問分野が存在することを知った。ナラトロジーとは何であるか。それは「物語」を取り扱う学問である。物語というのは極めて多岐にわたっていて、例えば神話や伝説なども物語だし、アメリカの政治を見た時にマニフェスト・ディスティニーといった概念があたかも「物語」のように人々の世界の理解の仕方に影響を与えていたことがわかる。また、「物語」というのは「私は誰で、どこからきて、どこへいくのか」といった問題を肩代わりしてくれる存在でもある。例えば、宗教は往々にして「私はなぜ生きるのか」「私はなぜ死ぬのか」「何故XXをするべきなのか・しないべきなのか」といった疑問を「信仰」―考えてみるこの信仰というのは数学の定理に似ている、人類はそれらが真であると認めることによって数学を発達させてきた―によって解消してくれる。

「私は物語に依存して生きてなどいない」と人は言うかもしれないが、信じてほしい、あなたは依存している。―昔いかなる物語にも依存せずに生きることを試みた男を個人的に知っているが、彼もやはりうまくいかなかったようだ―では物語の影響という物をNullにできない以上、私たちはそれとどう向き合っていけばよいのだろうか。それに取り組む上でとても良い入門書を発見したのでここで紹介したい。

 

「人はなぜ物語を求めるのか」―千野帽子― ちくまプリマ―新書273

 

「どうして私がこんな目に」と思った事はあるだろうか。例えばこういった問題である。

  • 不幸な人間関係に苦しんでいる
  • 自らが望む人・物・立場を得られない
  • 愛する人・物・立場を失った

筆者は本書の中で、そのような問いが発せられる理由は人間の根源的な欲求であると述べている。それは因果関係を解明したいという欲求に他ならない。因果関係という発想それ自体は大変役に立つものだし、それなしには人類の発展はなかっただろう。だが、問題は因果関係によって説明することが不適切な場面でその思考の枠組みを使おうとしてしまう事なのだ。例えば、とある人が癌を患ってもはや余命いくばくもない状態に陥ったとしよう。医者や科学者が彼に与えることのできる説明はおおよそ以下のようなものだろう「癌を発症するリスクを高める要因は多岐にわたります。まず喫煙習慣…云々。」だが彼が頭の中で繰り返ししている質問はこんな答えでは解答できるものではない。それはつまり「なぜ『この私』が癌を患わなければならないのか、なぜ私以外の誰かではないのか」という問いである。残念ながら、科学はそれに答える術を持たない。その問いに「物語」が無理やり答えてくれるのだ。「前世が云々」「功徳が云々」と誰かに言ってもらえれば、それによって「わかった」という状態に落ち着くことができるわけだ。人間は苦難に際して鉄の心ではいられない、それ故に「そうだからそう、何の理由もない」という答えには耐えられない。だがそれをだれが責められようか。

もう一つが「公正世界」の誤謬である。「因果応報」というものは実際には私たちが作り上げた概念でしかない。その発想に基づいた刑法などのシステムが社会に益している事は紛れもない事実であると思うが、問題は不幸な出来事が何かの因果によるものではないかと考えだした時である。アメリカで災害が起こるたびにテレバンジェリストたちはそれが神罰であると声高に主張する。「不幸な出来事は何かの罰でなければならない」という思考方法は21世紀になっても脈々と受け継がれている。

私たちは、「わかる」という技術をもっとも発達させた霊長類としてこの地球で最も高度な文明を築いた生物となった。だが、「わかる」という体験はある種の麻薬的な快感を伴って私たちの生活の隅々にまで浸透し、私たちを「解釈製造機」に変えてしまったのかもしれない。

本を紹介するつもりで書いていた文章だったが、全く何のまとめにもなっていないのははなはだ申し訳ない。極めて端的に言うと「『わかる』という事『わかりたい』と思う事は私たちが考えている以上に私たちの行動や思考を左右している。だが、本当にそこで出した結論や世界の理解の仕方の枠組みは妥当な物だろうか。それを問い直す事に価値があるのではないか。」といった感じである。

本書は新書であるが丁寧な読書案内が付いておりナラトロジーに興味のある人が最初に買う本としては最適であると思う。以下、メモ書き程度ながら本書を読んで浮かんだ疑問を箇条書きで記しておく。

  • 人間が物語から独立して生きることは可能か。
  • 物語と同化して生きている人々とどのように共生してゆけば良いのか。
  • 民族・社会によって「物語との同化度」に違いはあるのか。
  • 物語によって人々を纏めることなしに社会をより良い方向に導いてゆくことは可能なのか。
  • 道徳の基礎を「するべき」から「したい」へ変える事は可能なのか。
  • ナラトロジーはすべからく当事者研究

詩 和歌 作品集

【五・七・五】

黄昏に

鳴くは烏の

親か子か

 

電線に

賽の目切りに

される空

 

花持ちて

駆け出す稚児の

行く先は

 

【五・七・五・七・七】

図書館の

白き花咲く

此の春も

その名も知らず

また過ぎにけり

 

路地裏に

一片舞うは

桜花

振り向き見れば

花あるめやも

 

学問の

狭き門より

通らんと

乗り込む列車

門より狭し

 

猪口に映ゆ

弓張月の幽玄を

分かつ友なき

濡れ縁と私

 

口すぼめ

落書きすなる

嬰児の

雀の雛の

如き愛しさ

 

ヤミ米

買わぬが人の

命なるか

堕ち得ぬ人の

業の悲しさ

 

朝顔

蕾の早く

咲かまほし

そぞろ歩くは

蟻の子らなり

【注】

特に季語などの制約については考えずに作っているので悪しからず

 

 

翻訳 歌詞 "Little Talks" by Of Monsters And Men

www.youtube.com

I don't like walking around this old and empty house.

この空っぽの家を歩くのは好きじゃないの

So hold my hand, I'll walk with you my dear.

なら手を握って 僕が一緒に歩くよ 愛しい人

The stairs creak as I sleep, It's keeping me awake.

階段がきしんで眠れないのよ

It's the house telling you to close your eyes.

それは家が寝かしつけようとしてるのさ

And some days I can't even trust myself.

時々もう自分が信じられなくなるわ

It's killing me to see you this way.

そんな君を見ているのはとても辛いよ

'Cause though the truth may vary. This ship will carry our bodies safe to shore.

たとえ真実が幾つあっても、この船は私たちの体を岸辺に運んでくれるんだ

 

There's an old voice in my head that's holding me back.

頭の中の昔の声が私を許してくれないの

Well tell her that I miss our little talks.

なら 彼女に世間話ができなくて残念だと言いなさい

Soon it will all be over, and buried with our past.

もうすぐこれも終わりになって 私たちの過去と一緒に埋められるのね

We used to play outside when we were young And full of life and full of love.

良く外で一緒に遊んだね 命と愛に満ち溢れて

Some days I don't know if I am wrong or right.

時々もう自分が正しいのかすらわからないの

Your mind is playing tricks on you my dear.

気の迷いに過ぎないよ 愛しい人

'Cause though the truth may vary. This ship will carry our bodies safe to shore.

たとえ真実が幾つあっても、この船は私たちの体を岸辺に運んでくれるんだ

 

Don't listen to a word I say.

私の言葉に耳を貸さないで

The screams all sound the same.

怒声に意味なんてないのよ

Though the truth may vary. This ship will carry our bodies safe to shore.

たとえ真実が幾つあっても、この船は私たちの体を岸辺に運んでくれるんだ

 

You're gone, gone, gone away,

貴方は遠くへ行ってしまった

I watched you disappear.

貴方が消えるのを見てしまった

All that's left is a ghost of you.

もうあなたの亡霊しか残っていない

Now we're torn, torn, torn apart,

私たちは引き裂かれて

there's nothing we can do,

もう出来る事はない

Just let me go, we'll meet again soon.

もう行かせて頂戴 すぐに会えるんだから

Now wait, wait, wait for me, please hang around.

どうか どうか僕のために待ってくれ

I'll see you when I fall asleep.

眠りにつけば会えるんだから

Don't listen to a word I say.

私の言葉に耳を貸さないで

The screams all sound the same

怒声に意味なんてないのよ

Though the truth may vary. This ship will carry our bodies safe to shore.

たとえ真実が幾つあっても、この船は私たちの体を岸辺に運んでくれるんだ

 

Hey!

Don't listen to a word I say.

私の言葉に耳を貸さないで

The screams all sound the same.

怒声に意味なんてないのよ

Though the truth may vary. This ship will carry our bodies safe to shore.

たとえ真実が幾つあっても、この船は私たちの体を岸辺に運んでくれるんだ

Though the truth may vary. This ship will carry our bodies safe to shore.

たとえ真実が幾つあっても、この船は私たちの体を岸辺に運んでくれるんだ

Though the truth may vary. This ship will carry our bodies safe to shore.

たとえ真実が幾つあっても、この船は私たちの体を岸辺に運んでくれるんだ

 

随筆 「キャラが立っている」とは何か? 「血と砂」「放浪」「けものフレンズ」「月がきれい」を例に

自分が先刻ツイートした事についてつらつらと考える内に、「キャラが立っている」という現象には二つの要素が関わっていることに気づいたのでここに記しておきたい。

結論から言うと、その二つとは「キャラクターの行動"原理"に一貫性がある事」そして「キャラクター同士の関係性が互いに類似していない事」である。順を追って説明しよう。

そもそも、「キャラが立っている」というのは比喩表現なわけだが、私たちはどのような作品を見たときに、物語の中で「キャラが立っている」と思うのだろうか。試みに、私が個人的にそのように思った物をいくつか挙げてみよう。

〈小説〉

血と砂」 ブラスコ・イバーニェス

「放浪」 織田作之助

〈最近のアニメ〉

③「けものフレンズ」 たつき

④「月がきれい」 岸誠二

先ほど挙げた「キャラクターの行動"原理"に一貫性がある事」の「原理」にクオーテーションをつけたのは、例え表面的な行動そのものが変化してもそれを以てしてキャラが立っていないと断ずる事はできないからである。

例えば「血と砂」の主人公である闘牛士ガリャルドの行動原理は「出世・社会階層の上昇」である。一番人気の闘牛士になった彼は、それに飽き足らず貴族のドニャ・ソールと姦通する。さらに、より高い階層へと自分をつなぎ留めておくために高級サロンなどへも出入りし始める。しかし唐突にドニャ・ソールが自分の前から去ったことをきっかけに彼の転落が始まる。自暴自棄になった彼は闘牛の最中に「引っ掛け」に遭うが一命を取り留める。もはや昔のような闘牛を出来なくなったガリャルドだが、一度上がった社会階層から転落することが受け入れられず、身を亡ぼす。現実と行動原理が矛盾したまま進行する事によって起こる悲劇である。

「放浪」の主人公、順平の行動原理は「無計画」である。大阪の親戚の料理屋の継子になった順平は、自分の子でない子を宿した義妹の美津子と結婚する、だが子供の死、兄の文吉の死をきっかけに順平は家を飛び出し放浪の旅に出る。親族から金をせびったり旅先の板場に潜り込んだりして日銭を稼ぐが、フグで人死にを出して逮捕、釈放されるもお金を川に落としてしまう。こんなあらすじを聞くと順平が耐えがたいキャラクターのように思えるかもしれないが彼の「考えのなさ」には一貫性があるので、何とも不思議な体験なのだが、その流れに読者も乗せられてしまう。つまり、行動の一貫性が全く欠けていても、その背後にある行動原理がしっかりしていれば良いわけだ。

けものフレンズ」の主人公「かばん」の行動原理は「自分は誰なのか定義する事」である。あまりに有名な作品なので細かいことは割愛するが、「自分の種を教えてもらう」事と、「出会ったフレンズたちを助ける」事によって自らがどのような存在であるかを定義づけることが物語の背骨になっている。

月がきれい」の主人公、小太郎の場合はもっとシンプルに「恋心・愛情」が行動原理に当たる。茜と恋仲になる前にも後にも小太郎は茜への「恋心・愛情」に基づいて一貫した行動をしている。近年のロマンスアニメでここまで視聴者が信頼を寄せられる主人公がいただろうかというほどの貫徹ぶりである。

このように、少なくとも物語の中心となる人物が一貫した行動原理を持っていないと、消費者は「キャラがぶれている」とか「作者が透けて見える」などの感想を持ってしまうことになる。ただし、消費者が登場人物の行動原理の変化を絶対に受け入れないかというとそうではない。何故ならいわゆる「キャラクターの変化・成長」は「行動原理の更新」の事を指すからである。先述のガリャルドは「行動原理の更新」に失敗して命を落とす。もしガリャルドが考えを変えて小さな荘園の経営に心を砕く人生にシフトしていたなら、彼の物語は全く別の筋道をたどることもできたはずだ。

だが、行動原理だけが「キャラが立つ」現象のファクターではない。「キャラクター同士の関係性が互いに類似していない事」も重要である。先述した作品の中では、それぞれの登場人物が取り結んでいる関係はすべてが異なっている。だが、あまりにも煩雑になるのですべての作品について述べることはしない。実際に作品を鑑賞して考えて頂くのが一番なのだが、ここではおそらく読者諸君にもなじみが深いであろう「けものフレンズ」から例をとる。さて、これらの道中にセットで登場するキャラクター同士の関係性はどのような違いがあるだろうか?

アルパカ  トキ

ビーバー  プレーリードッグ

ライオン  ヘラジカ

ギンギツネ  キタキツネ

ヒグマ  キンシコウ - リカオン - (ヒグマ)

それぞれの線がキャラクター同士の関係性を表しているのだが、それぞれが取り結んでいる関係は互いに異なっている。ではそれがどのように異なっているかとなるとまた難しい質問なのだが、大切なのはダブりがあると消費者に感じさせないという点である。どれほどまでに一貫性のあるキャラクターを用意しても、キャラクター同士の関係に差異を出すことができなければ、物語にダイナミクスが生まれ辛くなり、なおかつたとえそうでなくても似たようなキャラクターをコピペしただけのような印象を与えてしまいかねない。

あまり十分な説明ではなかったかもしれないが、ある作品が何故面白いのか、あるいは何故面白くないのかを考える際に、

「キャラクターの行動"原理"に一貫性があるか?」

「キャラクター同士の関係性が互いに類似していないか?」

この二点を考えることが作品の分析に便利なのではないかと思ったので、ここに記しておく事とする。

随筆 坂口安吾について私の思う事

もし私が、「あなたの一番好きな作家は誰ですか?」と聞かれたならば、おそらく迷うことなく坂口安吾であると答えると思う。彼の作品の良さを一言で言い表すことはとても難しい作業なのだが、誤謬を恐れずにあえて定義するならば、彼の魅力は「人とその業への際限なき愛情」であるように思う。以下、彼の作品を通してそのことについて考えてみたい。

私が最初に読んだ彼の作品は「堕落論」であった。『半年のうちに世相は変った。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。』で始まる簡潔かつ美しい文体と印象的なエピソードで綴られる、私が最も読み返している随筆だ。彼はこの中で「堕ちる・堕落する」という表現を繰り返し使っているがそれはどのような意図で使われた言葉なのであろうか。これはあくまで私の見解であるが試みに読者の皆様と共有してみたいと思う。

私が思うに「堕落」とはつまり「既存の物語からの逸脱」である。私たちは生きてゆくために様々な物語に縋っている。安吾の時代であれば戦前は「神国日本」という物語が人々を導き、戦後には「平和的民主国家日本」という物語がその役割に当たるのだろう。これらの物語は互いに影響しあいながら(とはいえ、大きな物語がより小さな物語に影響することの方が多い)セフィロトの樹の如き階層性を持って私たちの生活の中に入り込んでくる。私たちはそれらの物語を駆使しながら「人間」である事を維持している。だが、それらの物語が剥奪される時、人間はどうなるのだろうか。安吾は東京の爆撃を『偉大な破壊』と呼び、その中にいた人々を『素直な運命の子供』と呼んでいる。この言葉の意味を捕らえてもらうには原文を読んでもらうしかないと思うのだが、私は『素直な運命の子供』とは「未来への見通しが全く立たず、それを立て直すこと放棄した人間の姿」であると解釈している。では、これが「堕落」なのだろうか。否。彼の語る堕落の姿とは、特攻崩れが闇屋になる事であり、未亡人が新たな恋に目覚める事である。つまり、物語が崩壊し、人々が既存の物語から逸脱する事を指すのだ。彼らは最早今まで彼らを支配し、抱擁してくれていた物語の中に戻ってゆくことはできない。しかし堕落した人間の強さとは新たな物語を作り出せる強さなのだと思う。

私が彼の小説を読んで想像するのは、彼は人一倍「人」に対して性根の優しい人間だっただろうという事だ。彼の小説に出てくる人々はどれも物語から逸脱した人間ばかりだ。「金銭無常」「戦争と一人の女」「青鬼の褌を洗う女」「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」などに出てくる人間はどれも一般的な社会規範から逸脱している。だがすべての登場人物たちは自らの生を自らの生き方で生きている。最も強烈なキャラクターは「夜長姫と耳男」に出てくる夜長姫なのだが、彼女の生き様、その行動規範は全く狂人のそれでありながらある種の一貫性に貫かれている。私は安吾に「人とその業への際限なき愛情」が無ければそのような作品を書けはしないと思うのだ。

物語は真実ではありえない。規範は真実にはなりえない。安吾はそのことを見抜いていたのだと思う。だが、人が物語から自由になれないことも安吾はよく承知していた。『なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄のごとくでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる』からである。そして、私もその人間の一人だ。故に、私は坂口安吾の作品を愛して止まないのである。