物語讃歌

物語について語ります。 Twitter:@monogatarisanka

随筆 「キャラが立っている」とは何か? 「血と砂」「放浪」「けものフレンズ」「月がきれい」を例に

自分が先刻ツイートした事についてつらつらと考える内に、「キャラが立っている」という現象には二つの要素が関わっていることに気づいたのでここに記しておきたい。

結論から言うと、その二つとは「キャラクターの行動"原理"に一貫性がある事」そして「キャラクター同士の関係性が互いに類似していない事」である。順を追って説明しよう。

そもそも、「キャラが立っている」というのは比喩表現なわけだが、私たちはどのような作品を見たときに、物語の中で「キャラが立っている」と思うのだろうか。試みに、私が個人的にそのように思った物をいくつか挙げてみよう。

〈小説〉

血と砂」 ブラスコ・イバーニェス

「放浪」 織田作之助

〈最近のアニメ〉

③「けものフレンズ」 たつき

④「月がきれい」 岸誠二

先ほど挙げた「キャラクターの行動"原理"に一貫性がある事」の「原理」にクオーテーションをつけたのは、例え表面的な行動そのものが変化してもそれを以てしてキャラが立っていないと断ずる事はできないからである。

例えば「血と砂」の主人公である闘牛士ガリャルドの行動原理は「出世・社会階層の上昇」である。一番人気の闘牛士になった彼は、それに飽き足らず貴族のドニャ・ソールと姦通する。さらに、より高い階層へと自分をつなぎ留めておくために高級サロンなどへも出入りし始める。しかし唐突にドニャ・ソールが自分の前から去ったことをきっかけに彼の転落が始まる。自暴自棄になった彼は闘牛の最中に「引っ掛け」に遭うが一命を取り留める。もはや昔のような闘牛を出来なくなったガリャルドだが、一度上がった社会階層から転落することが受け入れられず、身を亡ぼす。現実と行動原理が矛盾したまま進行する事によって起こる悲劇である。

「放浪」の主人公、順平の行動原理は「無計画」である。大阪の親戚の料理屋の継子になった順平は、自分の子でない子を宿した義妹の美津子と結婚する、だが子供の死、兄の文吉の死をきっかけに順平は家を飛び出し放浪の旅に出る。親族から金をせびったり旅先の板場に潜り込んだりして日銭を稼ぐが、フグで人死にを出して逮捕、釈放されるもお金を川に落としてしまう。こんなあらすじを聞くと順平が耐えがたいキャラクターのように思えるかもしれないが彼の「考えのなさ」には一貫性があるので、何とも不思議な体験なのだが、その流れに読者も乗せられてしまう。つまり、行動の一貫性が全く欠けていても、その背後にある行動原理がしっかりしていれば良いわけだ。

けものフレンズ」の主人公「かばん」の行動原理は「自分は誰なのか定義する事」である。あまりに有名な作品なので細かいことは割愛するが、「自分の種を教えてもらう」事と、「出会ったフレンズたちを助ける」事によって自らがどのような存在であるかを定義づけることが物語の背骨になっている。

月がきれい」の主人公、小太郎の場合はもっとシンプルに「恋心・愛情」が行動原理に当たる。茜と恋仲になる前にも後にも小太郎は茜への「恋心・愛情」に基づいて一貫した行動をしている。近年のロマンスアニメでここまで視聴者が信頼を寄せられる主人公がいただろうかというほどの貫徹ぶりである。

このように、少なくとも物語の中心となる人物が一貫した行動原理を持っていないと、消費者は「キャラがぶれている」とか「作者が透けて見える」などの感想を持ってしまうことになる。ただし、消費者が登場人物の行動原理の変化を絶対に受け入れないかというとそうではない。何故ならいわゆる「キャラクターの変化・成長」は「行動原理の更新」の事を指すからである。先述のガリャルドは「行動原理の更新」に失敗して命を落とす。もしガリャルドが考えを変えて小さな荘園の経営に心を砕く人生にシフトしていたなら、彼の物語は全く別の筋道をたどることもできたはずだ。

だが、行動原理だけが「キャラが立つ」現象のファクターではない。「キャラクター同士の関係性が互いに類似していない事」も重要である。先述した作品の中では、それぞれの登場人物が取り結んでいる関係はすべてが異なっている。だが、あまりにも煩雑になるのですべての作品について述べることはしない。実際に作品を鑑賞して考えて頂くのが一番なのだが、ここではおそらく読者諸君にもなじみが深いであろう「けものフレンズ」から例をとる。さて、これらの道中にセットで登場するキャラクター同士の関係性はどのような違いがあるだろうか?

アルパカ  トキ

ビーバー  プレーリードッグ

ライオン  ヘラジカ

ギンギツネ  キタキツネ

ヒグマ  キンシコウ - リカオン - (ヒグマ)

それぞれの線がキャラクター同士の関係性を表しているのだが、それぞれが取り結んでいる関係は互いに異なっている。ではそれがどのように異なっているかとなるとまた難しい質問なのだが、大切なのはダブりがあると消費者に感じさせないという点である。どれほどまでに一貫性のあるキャラクターを用意しても、キャラクター同士の関係に差異を出すことができなければ、物語にダイナミクスが生まれ辛くなり、なおかつたとえそうでなくても似たようなキャラクターをコピペしただけのような印象を与えてしまいかねない。

あまり十分な説明ではなかったかもしれないが、ある作品が何故面白いのか、あるいは何故面白くないのかを考える際に、

「キャラクターの行動"原理"に一貫性があるか?」

「キャラクター同士の関係性が互いに類似していないか?」

この二点を考えることが作品の分析に便利なのではないかと思ったので、ここに記しておく事とする。