物語讃歌

物語について語ります。 Twitter:@monogatarisanka

「人はなぜ物語を求めるのか」―千野帽子― ちくまプリマ―新書273 を読んで思う事。

私は子供のころから不思議に思っていたことがあった。それは「借り」という概念だ。マフィア映画などで「お前には貸しがあったな」とかいうセリフを聞くたびに、なぜこの人は暴力で人を脅すことを生業にしながらわざわざ「貸し借り」の概念を持ち出すのだろうか?つまり、言う事を聞かなければ害を及ぼすという単純なルールでしかないものをどうしてそんな「貸しがあるんだからそれを返せ」というロジックに置き換えるのだろうかと考えていた。また、「借り」がある人はなぜそれを負い目に思うのだろうかとも考えていた。

私は別に義理人情や他者の頭の中が理解できなかったわけではなかったが、単純にそれが不思議な事として映った。その疑問は長く私の中に残ったが、或る時「ナラティブアプローチ」という考え方に出会い、そして「ナラトロジー」という学問分野が存在することを知った。ナラトロジーとは何であるか。それは「物語」を取り扱う学問である。物語というのは極めて多岐にわたっていて、例えば神話や伝説なども物語だし、アメリカの政治を見た時にマニフェスト・ディスティニーといった概念があたかも「物語」のように人々の世界の理解の仕方に影響を与えていたことがわかる。また、「物語」というのは「私は誰で、どこからきて、どこへいくのか」といった問題を肩代わりしてくれる存在でもある。例えば、宗教は往々にして「私はなぜ生きるのか」「私はなぜ死ぬのか」「何故XXをするべきなのか・しないべきなのか」といった疑問を「信仰」―考えてみるこの信仰というのは数学の定理に似ている、人類はそれらが真であると認めることによって数学を発達させてきた―によって解消してくれる。

「私は物語に依存して生きてなどいない」と人は言うかもしれないが、信じてほしい、あなたは依存している。―昔いかなる物語にも依存せずに生きることを試みた男を個人的に知っているが、彼もやはりうまくいかなかったようだ―では物語の影響という物をNullにできない以上、私たちはそれとどう向き合っていけばよいのだろうか。それに取り組む上でとても良い入門書を発見したのでここで紹介したい。

 

「人はなぜ物語を求めるのか」―千野帽子― ちくまプリマ―新書273

 

「どうして私がこんな目に」と思った事はあるだろうか。例えばこういった問題である。

  • 不幸な人間関係に苦しんでいる
  • 自らが望む人・物・立場を得られない
  • 愛する人・物・立場を失った

筆者は本書の中で、そのような問いが発せられる理由は人間の根源的な欲求であると述べている。それは因果関係を解明したいという欲求に他ならない。因果関係という発想それ自体は大変役に立つものだし、それなしには人類の発展はなかっただろう。だが、問題は因果関係によって説明することが不適切な場面でその思考の枠組みを使おうとしてしまう事なのだ。例えば、とある人が癌を患ってもはや余命いくばくもない状態に陥ったとしよう。医者や科学者が彼に与えることのできる説明はおおよそ以下のようなものだろう「癌を発症するリスクを高める要因は多岐にわたります。まず喫煙習慣…云々。」だが彼が頭の中で繰り返ししている質問はこんな答えでは解答できるものではない。それはつまり「なぜ『この私』が癌を患わなければならないのか、なぜ私以外の誰かではないのか」という問いである。残念ながら、科学はそれに答える術を持たない。その問いに「物語」が無理やり答えてくれるのだ。「前世が云々」「功徳が云々」と誰かに言ってもらえれば、それによって「わかった」という状態に落ち着くことができるわけだ。人間は苦難に際して鉄の心ではいられない、それ故に「そうだからそう、何の理由もない」という答えには耐えられない。だがそれをだれが責められようか。

もう一つが「公正世界」の誤謬である。「因果応報」というものは実際には私たちが作り上げた概念でしかない。その発想に基づいた刑法などのシステムが社会に益している事は紛れもない事実であると思うが、問題は不幸な出来事が何かの因果によるものではないかと考えだした時である。アメリカで災害が起こるたびにテレバンジェリストたちはそれが神罰であると声高に主張する。「不幸な出来事は何かの罰でなければならない」という思考方法は21世紀になっても脈々と受け継がれている。

私たちは、「わかる」という技術をもっとも発達させた霊長類としてこの地球で最も高度な文明を築いた生物となった。だが、「わかる」という体験はある種の麻薬的な快感を伴って私たちの生活の隅々にまで浸透し、私たちを「解釈製造機」に変えてしまったのかもしれない。

本を紹介するつもりで書いていた文章だったが、全く何のまとめにもなっていないのははなはだ申し訳ない。極めて端的に言うと「『わかる』という事『わかりたい』と思う事は私たちが考えている以上に私たちの行動や思考を左右している。だが、本当にそこで出した結論や世界の理解の仕方の枠組みは妥当な物だろうか。それを問い直す事に価値があるのではないか。」といった感じである。

本書は新書であるが丁寧な読書案内が付いておりナラトロジーに興味のある人が最初に買う本としては最適であると思う。以下、メモ書き程度ながら本書を読んで浮かんだ疑問を箇条書きで記しておく。

  • 人間が物語から独立して生きることは可能か。
  • 物語と同化して生きている人々とどのように共生してゆけば良いのか。
  • 民族・社会によって「物語との同化度」に違いはあるのか。
  • 物語によって人々を纏めることなしに社会をより良い方向に導いてゆくことは可能なのか。
  • 道徳の基礎を「するべき」から「したい」へ変える事は可能なのか。
  • ナラトロジーはすべからく当事者研究