物語讃歌

物語について語ります。 Twitter:@monogatarisanka

随筆 坂口安吾について私の思う事

もし私が、「あなたの一番好きな作家は誰ですか?」と聞かれたならば、おそらく迷うことなく坂口安吾であると答えると思う。彼の作品の良さを一言で言い表すことはとても難しい作業なのだが、誤謬を恐れずにあえて定義するならば、彼の魅力は「人とその業への際限なき愛情」であるように思う。以下、彼の作品を通してそのことについて考えてみたい。

私が最初に読んだ彼の作品は「堕落論」であった。『半年のうちに世相は変った。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。』で始まる簡潔かつ美しい文体と印象的なエピソードで綴られる、私が最も読み返している随筆だ。彼はこの中で「堕ちる・堕落する」という表現を繰り返し使っているがそれはどのような意図で使われた言葉なのであろうか。これはあくまで私の見解であるが試みに読者の皆様と共有してみたいと思う。

私が思うに「堕落」とはつまり「既存の物語からの逸脱」である。私たちは生きてゆくために様々な物語に縋っている。安吾の時代であれば戦前は「神国日本」という物語が人々を導き、戦後には「平和的民主国家日本」という物語がその役割に当たるのだろう。これらの物語は互いに影響しあいながら(とはいえ、大きな物語がより小さな物語に影響することの方が多い)セフィロトの樹の如き階層性を持って私たちの生活の中に入り込んでくる。私たちはそれらの物語を駆使しながら「人間」である事を維持している。だが、それらの物語が剥奪される時、人間はどうなるのだろうか。安吾は東京の爆撃を『偉大な破壊』と呼び、その中にいた人々を『素直な運命の子供』と呼んでいる。この言葉の意味を捕らえてもらうには原文を読んでもらうしかないと思うのだが、私は『素直な運命の子供』とは「未来への見通しが全く立たず、それを立て直すこと放棄した人間の姿」であると解釈している。では、これが「堕落」なのだろうか。否。彼の語る堕落の姿とは、特攻崩れが闇屋になる事であり、未亡人が新たな恋に目覚める事である。つまり、物語が崩壊し、人々が既存の物語から逸脱する事を指すのだ。彼らは最早今まで彼らを支配し、抱擁してくれていた物語の中に戻ってゆくことはできない。しかし堕落した人間の強さとは新たな物語を作り出せる強さなのだと思う。

私が彼の小説を読んで想像するのは、彼は人一倍「人」に対して性根の優しい人間だっただろうという事だ。彼の小説に出てくる人々はどれも物語から逸脱した人間ばかりだ。「金銭無常」「戦争と一人の女」「青鬼の褌を洗う女」「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」などに出てくる人間はどれも一般的な社会規範から逸脱している。だがすべての登場人物たちは自らの生を自らの生き方で生きている。最も強烈なキャラクターは「夜長姫と耳男」に出てくる夜長姫なのだが、彼女の生き様、その行動規範は全く狂人のそれでありながらある種の一貫性に貫かれている。私は安吾に「人とその業への際限なき愛情」が無ければそのような作品を書けはしないと思うのだ。

物語は真実ではありえない。規範は真実にはなりえない。安吾はそのことを見抜いていたのだと思う。だが、人が物語から自由になれないことも安吾はよく承知していた。『なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄のごとくでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる』からである。そして、私もその人間の一人だ。故に、私は坂口安吾の作品を愛して止まないのである。